BLUE MEMO – Wednesday Column Vol.5「たとえ老いても、私たちは美しいものを創ることができる。」

老いは、誰にでもやってくる。死もまた、すべての人に訪れる。
僕が老いや死について真剣に向き合うようになったのは、24才のときだった。
その年、身内が立て続けに亡くなった。
死の淵にいる人を、すぐそばで見つめたのは、それがはじめてだった。それまでテレビや映画の中でしか「死ぬ」という現象を見てこなかった僕にとって、それは衝撃的な体験だった。まるで、それまで見えていなかった死神の存在に気づいてしまったかのように、老いや死というものが、いつも僕の頭の片隅に居座るようになった。
「老いや死に、救いがあるとしたら、それは一体なんだろうか。」
この現実が人間にとってどれほど過酷で、時に絶望的か。
向き合えば向き合うほど、それを思い知らされる。どれだけきれいな言葉を並べても、死の前では虚しく感じられる瞬間がある。僕は、こうした現実をまだ完全には受け入れられていない。
——それでも、こう考えるようにしている。
「人は老いて、死にゆくことでしか、得られない優しさと幸福がある。」
人の優しさは、死という避けられない運命があるからこそ、深まっていく。
死や老いを悟ったとき、人は同時に「弱さ」も背負うことになる。優しさと弱さは紙一重だ。けれど、その弱さに気づけるからこそ、人の痛みを想像できる。苦しみに共感し、寄り添い合うことができる。そして、心を通わせることができる。その中には、かけがえのない幸福がある。
もし老いや死のない世界があったとしたら、どうなるだろう。
もしかするとそれは、救いようのないほど冷たい世界なのかもしれない。持つ者と持たざる者の差が、永遠に開き続けるような世界。誰もが孤独で、共感もできない世界。
僕たちが慈しみ合い、つながり合えるのは、「老い」と「死」が、すべての人間に平等に与えられているからにほかならない。
「たとえ老いても、私たちは、美しいものを創ることができる。」
美しさは、誰かが定義するものじゃない。
でも少なくとも僕には、痛みに寄り添ったり、誰かを励ましたり、慈しむ心を持つことが、美しく映る。絵を描くこと、詩を書くこと、メールを送ることさえ——人になにかを届ける営みのひとつひとつは、優しい感性を磨く小さなチャンスだ。
そしてそれは、年齢を重ねても続けられる。いや、むしろ老いるからこそ、より深くなっていく。
内面の美しさは、老いの中でこそ育つ。それは、自分が穏やかで幸福に生きていくための、小さくて確かな足がかりになる。
老いや死は、たしかに怖い。けれどそれは、優しさと美しさを深めていく、ひとつの「プロセス」なのかもしれない。
こうした考えを、胸の中に持っておくだけで、僕は今日をほんの少し前向きに生きることができるのだ。