BLUE MEMO – Wednesday Column Vol.4 「いちばんの味方は、自分であってほしいな。」

「日本は不寛容な国になった」——最近、そんな言葉をよく耳にする。
たしかに、まわりを見渡すと、みんなスマートフォンに夢中で、行き交う人の顔を見ることもない。僕自身も含めて、周囲への気遣いや思いやりが薄れてきているのは、肌で感じる。
でも、よくよく考えてみると、不寛容になったのは本当に周りだけだろうか? もしかすると、自分に対していちばん不寛容になったのは、他の誰でもなく、自分自身なんじゃないか。 僕は、そんなふうに思う。
いつから、どうして、そう感じるようになったのかは分からない。 でも少しずつ、自分の人生をどこか他人任せにしているような気がしてならない。 自分の中の直感や痛みに耳を傾けず、無視してしまっている。そんな感覚がある。
たとえば僕には、あるアレルギーがある。ネットで調べれば、だいたいの病名は想像がつく。 でもいくつか病院をまわっても、医師たちはなかなか診断名をくれなかった。 その曖昧さに、僕はずっとモヤモヤしていた。「病名さえつけば、楽になれるのに」
そして最近、大きな病院で診察を受けた。いくつもの検査の末、ようやく病名が告げられた。(すでにネットで調べ上げていたので驚きはなかった)
そのとき、初めて少しだけ肩の荷が下りた気がした。 まるで、なにかの“許し”をもらったような感覚だった。それから僕は、仕事を少しセーブして、ゆっくり過ごそうと決めることができた。
きっと、似たような経験をした人は多いと思う。 体がしんどいときに熱があると、どこかホッとする瞬間。 「これでやっと、休んでもいいんだ」と思えるようなとき。
でも今思えば——少し不思議だ。 病名がついたからといって、症状が急に良くなったりするわけじゃない。 ただ、僕たちは「休んでもいい」という“理由”を外側に求めてしまう。 心や体がつらくても、明確な根拠がなければ、自分を労わることすら難しい。
もしあのとき医師が「まったく問題ありません!仕事もバリバリやってください!」なんて言っていたら、 僕はきっと「甘えてる場合じゃない」と思って、自分にムチを打っていた気がする。
僕たちは日々、誰かの評価に頼って生きている。 自分の痛みは、自分がいちばんよくわかっているはずなのに、誰かに「その傷は深くて、痛いですね」と“判断”してもらえないと、その痛みを自分で認めてあげることもできない。
自分の心の叫びや、体の痛みを置き去りにして、他人の声ばかりを頼りにして生きる。それこそが、自分への最大の不寛容なのだと思う。
だから僕は願う。 僕自身は、自分の最大の味方であってほしいと。 自分の声をきちんと聞いてあげられる、心強い味方であってほしいと。
辛いときは「辛い」と言える。嫌だと思ったら「嫌だ」と言える。 楽しいときには「楽しい」と、好きなものには「好き」と言える。
素直に、自然にそう言える。 誰かの評価に左右されずに。——とてもシンプルなことだけど、だからこそ忘れたくない。
自分に優しくなれる人ほど、きっと他人にもやさしくなれる。そう信じたい。
そしてきっと、そんなところから少しずつ、ほんとうの意味で「寛容な世界」が始まっていくんじゃないかと思う。