BLUE MEMO – Wednesday Column Vol.3「月は欠けているから美しい…」

「人生に、完璧なんてほとんどない。それは、月がほとんど満月にならないのと、同じように。」
僕たちが“本当の満月”を見られるのは、1年のうち、たった12日ほどしかないらしい。
それ以外の日は、ほとんど「欠けた月」だ。
でも不思議と、僕たちはそれを“未完成な月”なんて思わない。上弦、下弦、三日月…。それぞれの月にはちゃんと名前があって、その形に昔から美しさを見いだしてきた。
自分の人生も、そんなふうに捉えられたらいいのに。完璧じゃなくても、欠けていても、どこか愛おしい。
そんなことを考えていると、肩の力がすーっと抜けていくのを感じる。
少しだけ、僕自身の話をさせてほしい。
僕はこれまで、自分の人生をずっと「不完全」だと感じてきた。いわゆる「満月」みたいな瞬間を、ちゃんと経験できたことがない気がする。
朝が起きられない。勉強が全くできない。人との関わりに戸惑うことも、何度もあった。小中高と、学校に行けない日が続いたこともあったし、大人になって会社に入っても上手くいかなかった。
それ以外にも、お箸や鉛筆の持ち方が上手く出来なかったり、スマートフォンのタッチパネルやパソコンのキーボード操作も苦手だ。
まわりの“当たり前”が、僕にはどうもうまくできない。
こうした“できない”が少しずつ積み重なって、いつもどこかで、自分が世界から取り残されているような気がしていた。
それでも僕は、ずっと「ちゃんとした人生」を生きようとしてきた。まるで、満月を追いかけるみたいに。
これはきっと僕だけに限ったことじゃない。誰もが少しずつ「自分の欠けた部分」に悩みながら、それでも前に進もうとしている。よりよく生きたいという気持ちは、とてもまっすぐで尊いものだと思う。
けれど、ずっと満月を目指し続ける人生は、やっぱりちょっと疲れてしまう。
むしろ、月のように、欠けたままで堂々としている方が、なんだか自然で、清々しくさえ感じる。
それに、よく考えてみれば──僕たち動物も、あるときから「男」と「女」に分かれたと言われている。生命のはじまりには、性別も寿命もなかった。
そこから誰のいたずらか、完璧とは言えない“いまの形”へと進化してきた。
つまり、欠けがあることは“自然の法則”なのだ。
完璧じゃない。それがふつう。みんな、どこかが欠けたまま生きている。
だから僕も、それでいい。
いつか自分の人生にも、欠けた月のような美しさを見いだせたら。満ち足りないままでも、美しいと感じられる日が来たら──。
そんなことができたとき、きっと少しだけ、幸せに近づける気がする。
春の夜長、そんなふうに思いながら気付けば眠ってしまっていた。